日本海軍 白菊 機上作業練習機 (九州飛行機 K11W)

尊い命への鎮魂の想いと恒久平和を次世代に語り継ぐ

白菊特攻隊とは

徳島白菊特別攻撃隊 (第一次~第5次)
編成61機(1機に操縦・偵察の2名搭乗)のうち、電信機搭載26機(42.6%)
出撃者延べ122名(士官41名/下士官兵56名)※複数回の出撃者あり
戦死者56名(士官18名/下士官兵38名)

1945年4月初旬、第二次世界大戦中の日本で、敗戦の濃厚な状況の中で特攻隊が編成されました。この特攻隊は、徳島海軍航空隊の偵察員養成のために結成されたものでした。当時、操縦士不足のため、各地の航空隊や中国・上海の実戦部隊から操縦員が集められました。

戦況がますます悪化し、約250人の徳島海軍航空隊の操縦員や偵察員が基地の広場に集められ彼らは航空隊司令から「白菊特別攻撃隊員を命ずる」という命令を受けました。

「白菊」は本来、偵察員の訓練用機であり、戦闘に使用するには機能が不十分でした。しかし、実戦で使用できる飛行機が不足していたため、特攻機として運用されることになります。

彼らは250キロの爆弾を2つ取り付け、沖縄沖の米軍艦隊に体当たりする任務を与えられました。しかも、「白菊」は離陸しても車輪は引っ込まず、最高速度は零戦の半分以下の時速230キロ程度でした。彼らは500キロの爆弾を積み、海上約100メートルの高さで明かりをつけず、暗闇の飛行を5時間続けました。

彼らは戸惑いや不安、興奮、恐怖など、複雑な心境の中で覚悟を決めました。そして、1945年5月24日に第一次攻撃隊を皮切りに、合計5つの隊からなる56人がこの作戦で犠牲となりました。

私たちについて

徳島白菊特攻隊の
忠実を知り、語り継ぐ

戦争を体験された方のの数はどんどん少なくなってきますが
この地に実際に起きたことを永遠に語りづいでいかなくてはならないと、私たち徳島白菊特攻隊を語り継ぐ会は平成27年1月1日に設立しました。

戦後80年近くがたち、価値観の多様化や個性の尊重などの環境に育った若い世代には、特攻隊の行動を理解できないという人がいるかもいれません。
しかし、極限の境地において書きつらねた遺書を目にするとき、胸を打たれる人も多いのではないでしょうか。
それは、死を覚悟した人のいう言葉には、利害や駆け引きがなく、真実が込められているからです。

私たちはここに、与えられた環境の中で、短い人生を精一杯生きた若者たちの言葉を消化し、冥福を祈りたいと思い活動しています。

お知らせ

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